斎藤優見

斎藤優見さんは相模原市生まれ。今と違って幼いころはおとなしくて人見知り。そんな性格を変えようと小学生5年の時に地元の和太鼓クラブに入る。その活動は今も続いている。中学では弓道部に高校では美術部で活躍する。高校の時には専修大学のフットボールチームのマネージャーも経験している。美術が好きだったこともあり美大を目指し予備校にも通ったが途中で進路を変更し大学は経済学部に。大学では学業よりも当時流行っていた学生ベンチャーのスタッフとしての活動が忙しかったようだ。

就職はホームファッションのニトリ。アメリカ研修を経験するなど順調なスタートを切るも父親がJICAのシニア海外協力隊として赴任していたコスタリカを訪ねたことが人生の転機となる。海外協力隊として働く日本の若者やシニアと接し、使命感やその生き方に衝撃を

受け、共感し強い憧れを持ったという。帰国後間もなくニトリを退職し、再びコスタリカに。父親と暮らしながらスペイン語を習得する。そこで出会った世界放浪中の韓国人と結婚。彼とゲストハウスを開業するためにスペインのバルセロナに渡る。ゲストハウスの女将として忙しい日々を送る。

2年半でゲストハウスをたたんだ後もバルセロナに残る。日本語教師で生計を立てつつ、日本の着物をスペインに広める活動に力を入れるようになる。祖母が海外に出るとき持たせてくれた木綿の着物を着てバルセロナの街を闊歩している様をブログにUPしたところ、バルセロナの着物愛好家からメールがあり、それがきっかけで着物の普及を目的とする「NPOきものバルセロナ」を立ち上げる。このNPOはスペイン全土で最盛期500人の会員がいたそうだ。活動を始めると日本の領事館、日本企業からオファーが続々と寄せられようになる。スペイン各地のイベントに呼ばれたり、毎週のようにラジオやテレビに出演するようになる。着物を着た親善大使のような存在だったのだろう。両親の介護で帰国することになりスペインでの生活は6年でピリオドを打つ。

帰国後、母親から勧められ相模原市が主催する「創業塾」に参加する。そこで知り合ったさがみはら産業創造センターのスタッフに勧められた内閣府主催のISB公共未来塾ソーシャルビジネスコンテストで入賞し、その賞金を元手に着物の普及と国際親善を目的とするキモノワールドライフ株式会社を設立する。留学生向けの着物セミナーなどを企画し、近隣の大学や高校へ売込みをかけていった。この事業1年間頑張るが軌道に乗らず、斎藤さんはリサイクル着物を扱う呉服店に就職。平日はこの呉服店で働き、週末はキモノワールドライフの活動を続けつつパーソナルスタイリストとしても活動する。この時期に国家検定の「着付け技能士」の資格を取っている。今は会社も退職し、子育てしながら自宅の一階に設けたスタジオで着付教室をまた、着物のパーソナルスタイリストとしても活躍している。

今後はやはりキモノワールドライフが目指した着物を世界に広める活動に再度挑戦したいと思っている。